GAKUヒストリー4
小学校を退学した俺は、まだはっきりとした病名も分からず・・・
あちこちの病院を転々としていた。
ある病院では小児麻痺と言われ、またある病院では筋無力症と言われた。
自力で立ち上がる事は出来ず、つかまり立ちがやっとの状態だった。
小さな町医者ではどこも首をかしげるばかりで原因が分からなかったし、
医者もどうしたら良いのか判断に困っていたらしい。
結局北海道で一番大きな北海道大学病院に受診し、筋ジストロフィー症という診断が下された。
でもこの病名も実際は違っていたわかだが、俺は筋ジストロフィー症という事になり、専門の病院を紹介され、八雲町にある国立療養所八雲病院に入る事になった。
当時この病院は筋ジストロフィー症などの小児神経科が専門で、療養所型で養護学校が隣接していて、この療養所に入院している子供は親元を離れて療養しながら、隣の養護学校に通うのだ。
俺は訳も分からず、この病院に連れていかれた。
ガラス張りの部屋に通され、母親と一緒に病室を回り案内された。
案内してくれたのは綺麗な若い看護婦(看護師)さんだった。
優しい笑顔で よく来たね!と言い、親切に説明しながら案内してくれたのだが・・・
俺にはとても衝撃的な光景が広がっていたのだ!
まず!ベットの柵が異様に高く!そのベットの中で子供がヨダレを垂らしながら、ア〜ウ〜〜と言いながら何か喋っている。
各病室にはベットが4つから6つあり、大抵の子供はベットの中か車椅子にいた。
しかし何人かの子供は廊下やプレイルームにおり、どの子も表情は無く転がりながら移動する子もいれば、いざり(ずりながら)で移動する子。
足と腰にギプスを巻いて遊んでいる子もいた。
俺はその時俺以外の障がいを持った子を見た事がなかったので、驚きと共に大変ショックを受けた。
この後Drと看護婦長から説明があり、
「君は、これからここで勉強しながら生活していくんだよ。」
と言われた。
とにかく嫌で帰りたかった・・・・
おふくろはただ呆然とその子達を見つめていた。
心配そうに「ここで、ずっと過ごしていけるのかな・・・」
とつぶやいていた。
それを聞いて俺も不安になり、ここで生活していけるのかな・・・
と悲しく泣きたい気持ちになった。
看護師長とDrは友達がいっぱいいるから、大丈夫だよと笑顔で励ましてくれていたが そんな言葉はどこか遠くで話している他人事のように聞こえた。
本当に俺は家族と離れ、ここで生きていけるのか・・・・
涙が溢れてきた。
しかし結局はこの療養所に入る事に決まってしまった。
俺はこの見学の後一週間夜になると泣き続けていた・・・
いよいよ入所の日、家族全員で療養所に行った。
4人部屋の病室白い壁白い天井、俺はベットに座り家族はその周りで椅子に座り時が来るのを待つように、ぎこちなくしゃべっていた。
俺は家族はいつ帰ってしまうのかそればかり気になり
ひたすら 帰らないで! 帰らないで!
と叫びながら泣いていた。
そしてその時はいきなり来た!
おふくろが、買い物に行くと席を立った・・・
それに引きつられて親父も弟も行ってしまった。
待てども待てども戻ってこない・・・・
お母さん!お母さん!と叫び一晩中泣いていた。
それを見かねた看護婦さんがベットの上で背中を叩きながら添い寝してくれた事が今でも脳裏に焼き付いている。
うそつき!うそつき!お母さんの嘘つき!
いつ帰ってくるの!?
俺は一週間泣き続けたのだ。
最初に添い寝してくれた看護婦さんが夜勤の時は必ず添い寝してくれた事を覚えている。
髪の長い若い看護婦さんで、とても優しくしてくれたのがありがたかった。
一週間しておれの中で諦めの気持ちが芽生えはじめ、そんな中病棟のみんなに紹介される会が催された。
みんなに紹介された時の写真がこれだ!
みんなに紹介されながらおやつを食べている。
中央左寄りに椅子に座っているのが俺だ。
ここはプレイルームで中央が絨毯ばりになってる。
これから5年間この療養所で過ごす事になる・・・・
不安でいっぱいだった。
こんな風にして俺の療養所生活がはじまったのだ。
次回療養所生活について語ります!
0コメント